絵本「ヘロヘロが飛んでるよ。」
絵本「僕の鼻毛の三割は白髪だ。」から1年、自らの顔へのこだわりがすべてであった。今回もやはりそうであったのようにみえる。全くその通りだ。もう、変わることはないだろう。
絵本「ヘロヘロがとんでるよ。」について
何層かに重ねられたこの情景では人の目が大きなインパクトを与えている。どうしても目を置きたくなってしまう。これは誘惑であり、避けがたいものの一つだ。どこへ行ってもやることは同じだ。人間なんてそう変わるものではない。その昔、それでも地球は回っている、と言ったようだ。道があるから犬にしろ人にしろ歩いて何処かへ行くのだ。これは現実のようなそうでないような不安を呼ぶでもない平安でもない。さてなんだろうね。
青空は救いだ。横断歩道の白く太い線も救いだ。本来何もあってはならない道路の上のコントラストは嬉しい。どうしてもオレンジ色が欲しくなった。木は面白い。人体のような時もある。一つにそれは人の肉体が獣のように毛で覆われていないためだろう。そう、木肌と言う。矢印は強い意志が感じられ、見ていて不安を払拭する力がある。それの方向などどうでもいい。好きにやってくれ、みたいな。そうです。それでいいのです。ピンクの空と薄くて淡いブルーの川はとても美味しそうだから空色の人には赤い唇と10の足がぴったりとフィットするんだ。空間は手で触ることができない。そういうものでないからだ。どこまでも続いていて曲がったり次元を超えたり、中々のものだ。過ぎ去りし時はどこにもない。並べられた椅子がここにあるのは偶ではない。存在とは不思議なものでどんなものにもなるし、それが本当に永遠にもなる。海へ行くとそこはワインで満たされていた。こう並べてみると人間とそうでないものとの差は大きい。水平線には今まさにハスの花が登ろうとしていた。人間とは何だろう。価値の崩壊とは今までそうであったものがそうでなくなる。本当の景色とはこんなに明るくはないから。そう、その向こうへ行けばいいのだ。この犬は日本語ができるので赤い唇や鼻についての話を聞くことができた。この犬の母親もそうであり祖母もそうであった。遺伝的なもののようだ。どうもパッとしない。周りの全てが流れている中で一人取り残されているような気がしないでもない。この言い回しもよくない。そうだと断定しなくてはいけないのだ。人はそれぞれの時間が過ぎていく日々の中で、一つの流れとして生きているわけだが、ふとした時に、それを外から眺めてみることがあっていい。人の顔なんていい加減なものでどうにでもなってしまう。逆に言えば大した変化などないのだけれど微妙な違いを楽しんでいることなのだ。なんだろうね。
第42回東京展・絵本の部
2016年9月9日(金)〜9月16日(金) 東京都美術館にて開催(写真の部)