Mikkiou/Short-Short作品集


「万歳」---------------------------------------------------------------'99.09.16

ある夜のこと、ブリッと音がして気が付くとけつの穴から五寸釘が3本出てきた。
びっくりしたが理由は分からなかった。
次の日にも五寸釘は出てきた。
それは5日続いて全部で19本になった。

それから3日間は何も出てこなかった。
そして次の夜、ブリッと音がしてけつの穴から煉瓦が出てきた。豆腐のでかいような
やつだ。
煉瓦は1日置きに全部で3個出てきた。

これは何かの前兆であることは確かだった。
取り敢えず19本の五寸釘と3個の煉瓦をテーブルの上に置いて眺めて見たが、でかい
釘と唯の煉瓦であった。

そして次の夜、ブリッと音がして今度は玉子が出てきた。立て続けに3個出た。
玉子を産んだことになるのだろうか。
眺めて見ると普通の玉子である。
目玉焼きにして食べて見たがやはり普通の玉子であった。

こうなると次に何が出るか楽しみになってくる。
それから4日目の夜ついにそれはやってきた。
とうとうけつの穴が歌いだした。

きれいなソプラノである。これは歌劇マダム・バタフライの「ある晴れた日に」では
ないか。
歌い終わると声はテノールに変わってヴェルディの「女心の歌」へと続く。
さらに「帰れソレントへ」「パリの空の下」「ブラジル」「ケンタッキーのわが家」
もう何でもありだ。
「赤とんぼ」「荒城の月」「春の小川」「炭鉱節」「南部牛追い唄」。
声はバリトンに変わって浪曲「遠州森の石松」だ。
そして我が国家「君が代」。君が代は千代に八千代にさざれ石の・・・。
拍手鳴り止まず、歓声も聞こえる。ブラボー、ブラボー。
おっ、アンコールだ。この歓声に答え、アンコール。
静寂の中メゾ・ソプラノで「アメイジング・グレース」。
そして拍手、拍手、拍手鳴り止まず。ブラボー、ブラボー、万歳、万歳。


「月の上で」-----------------------------------------------------------'99.10.31

 月の上で横になっていた。月の真空も強い太陽光線も透明なクリスタルの私
には心地よかった。
私がなぜここに来たのかはわからない。

 風邪をひいて寝ている間にここへ来てしまった。
肉体と精神は別ではあるけれど身体の影響は起きている限りあるからそれに逆
らってまで精神を高揚することはできない。
精神だけがとてつもない高みに至ることはできない。それはそうなったことを
確認するのは身体であるからだ。人間とは弱い物だ。人間とは考える葦であっ
て、人間であることは葦であることだからだ。

 私の身体は10cmX50cmX120cmの自分では動くことのできない透明な物体になっ
ていた。

 高熱による体力の消耗が体内の循環を低下させて、そのことが脳への血流の
低下をもたらして、自らの存在が危うくなってしまったから、そのことが寝る
ことも喜びも快楽もあらゆる良きことを何処かへやってしまった。

 精神には時間が無いから何時終わるとか、もうすぐ終わるとかが無い。

 満月の時だから地球は汚い球にしか見えない。私は完全に透明な身体だし均
質だから目があるわけで無く脳も無いし何も無い。けれども地球を見ることが
できるし、この宇宙を考えることもできる。

 今は幸せなのだろうか。そう、幸せである。それは身体が透明なクリスタル
だからだ。

 良くできた身体、内臓や筋肉や骨や血が破綻なく動いている身体でもこの透
明な身体に比べあまり気持ちの良い物ではない。でも残念なことに、そういう
物にしか精神は宿らないのだ。

 他人のことはわからない。例えば水中で溺れたとしよう。苦しみの時間が過
ぎると死んでしまって、後はさらに時が過ぎるとあの白く膨らんだ犬の死体の
ようになってしまう。精神は何処へ行ってしまったのか。何処へも行かない。
精神も死体になってしまったからだ。

 青い地球が見える。
真空で冷たく、何も無い砂漠で、黒い宇宙の一部であるここにこうしているこ
とも、透明で硬い物体であるこの身体も私は好きだ。


「ウッソーマン」--------------------------------------------------------'00.01.31

「今日はたまたま通りかかったウッソーマンに電撃インタビューをおこない、ウッソーマンに関して日頃から感じているいろいろな疑問をぶつけてみることにいたしましょう」
「それではまず。私は嘘が嫌いだからウッソーマンになったのです。真実とは、ただそこにある、そこに静かに存在しているものを言うのです。一度、その物について語ったり感じたりしたら、たちまちそれは嘘となるのです」
「難しい話は後にして、まずその衣装について伺います。あの有名なスーパーマンと似たようなかっこうですが」
「私はこのスタイルは完成されたものと見ています。体にフィットする服や靴にマント、特にこのマントについてはこれがないとただの人になってしまいます。一枚の布がこれ程役に立っている例はほかにありません」
「嘘を否定するウッソーマンとしてはその衣装を捨て、肉体の真実をさらけだすことが一番かと思いますが」
「確 かにこの純白の絹のマントだけで十分ではあるのです。けれども肉体の真実は何かをまとうことによってそれが嘘となるわけではありません。むしろ肉体の真実 はその皮膚によって生まれた時から既に嘘となっているのです。ですから逆に何かをまとうことによって肉体の真実は蘇るのです」
「嘘を否定する人がなぜウッソーマンになったのですか。むしろシンジツマンを名のるべきかと思いますが」
「真実を語る時は既に嘘になっているのですから、語る人となった私はウッソーマンでよいのです」
「真実は何処にもないのですか」
「語るべき真実はありません。すぺてが嘘であり、またすべてが真実でもあるのです」
「ウッソーマンの衣装は青・マリンブルーの地に大きめの黄色の水玉模様となっていますが、これには何かいわれがあるのでしょうか」
「これは空とその星です」
「わりと月並みな発想ですが。胸のところに大きく(う)と書いてあります、これは嘘の(う)ですね。背中には(あ)と書いてありますが」
「(あ)は愛です」
「股間のところには(せ)とあります。これは(せっくす)の(せ)ですか」
「性の(せ)です」
「お尻の両側にある(し)と(は)は何でしょうか」
「(し)は食(は)は排です」
「愛は真実ではないのですか。愛は何かを強く思う心。そこには永遠が見えたりもするのですが」
「愛を背中にしょっているのは理由があります。これこそ正に語るものではありません」
「これも何か月並みのご意見のようですが」
「愛とは正に月並みの行為です」
「ところで、ウッソーマンは空を飛ばないのですか。もっぱら電車に乗ったり、飛行機を利用しているとの話を聞きますが」
「私は空を飛ぶことができます。けれども、特別に急ぐ時以外は飛びません」
「では、特別に今、少しだけ飛んでいただけませんでしょうか」
「わかりました。ヒューーーーーーーーーン」
「いや、ありがとうございます。納得です。もう一つお願いがあるのですが。よろしいでしょうか」
「何なりと」
「ここに1トンの鉄の塊があります。これをあの山の向こうまで投げていただけませんか」
「わかりました。ヒューーーーーーーーーン」
「パチパチパチ。いやーー。まったく凄い。感激です。まるでスーパーマンのようですね」
「おやすい御用です」
「さてと、話は戻りますが、股間のところの(せっくす)ですが、お見受けしたところウッソーマンは男性のようですが、そこにはやはり(あれ)があるのでしょうか」
「残念ながら、人並みに(あれ)があります」
「股間に(せ)の文字とは少々露骨のようですが」
「性とはそういうものです」
「性こそは真実のような気がするのですが」
「性だけが特別ということはありません。ただ場所が違うだけのことです」
「さてこのインタビューも終わりに近づいてまいりました。この後ウッソーマンと露天風呂に入り、この近くの皆さんと歓談することになっております。誠に残念ですが、それでは皆さんさようなら。ウッソーマン、最後に一言お願いします」
「特に語るべきことはありません」


「ちょん切り魔」--------------------------------------------------------'00.05.15

「私は誰にも魂を売ったりはしません。ましてや悪魔に魂を売ったりなどはしません。私にはそういうことができないのです」

「そう言われても私は悪魔ではありません。ごく普通のそのへんの人です。あなたはどうも間違った見方をしているようで誤解があります。それにそもそも魂を売るとはどういうことなんでしょう。」

「そんな質問をするところをみるとやっぱりあなたは悪魔ではないですか。魂を売るとはそれになってしまうことです。私はそれになることなんかできま せん。私は絶対に私です。それにその右手に持っている鋏それはこの多様化した現代においてやはり多様化した悪魔の一派であるちょん切り魔の鋏で私のあれを ちょん切るつもりでしょう。そうです。あなたはちょん切り魔だ。そうだちょん切り魔だ。でもどうしてちょん切り魔が私のところになんか来るのだろう」

「私はちょん切り魔などではありません。この金色の鋏は美女の黒髪を切るために持っているのです。それに私はあまりお目にかかることもありませんが三件隣の鈴木です」

「なるほど鈴木さん。鈴木さんが金の鋏で美女の黒髪を切る。なんでそんなつまらない物を切るのでしょう。ちょん切り魔というのはあれを切るもので す。すれ違いざまにちょんです。私はちょん切り魔にやられた人を何人も知っています。でもやられた人は黙っていますから普通はわかりません。」

「ですから私はちょん切り魔などという変な者ではありません。今日はたまたまこの鋏を持っていますが、普段は鋏と言えばせいぜい盆栽に使うぐらいです」

「でも鈴木さんあなたの後ろに見える鉤のついた尻尾は何ですか。それは悪魔の証拠ではありませんか」

「これですか。これは尻尾ではありません。こうやって手に持って、ぐるぐる回してちょんですよ。ほらさっき庭木を切っていた時にくっ付いてしまった枝です」

「鈴木さん。実は私はちょん切り魔に憧れていたのです。どうしてだか分からないけれども。そのちょんが、高いビルから飛び下りてしまうような、そのちょんが、大変な誘惑なのです。だからこの機会にできれば一つ、ちょーーんと」

「うーむ。なるほど分かりました。私は確かにちょん切り魔です。けれども現物を前にしてあらたまってやろうとするとなんだか勇気が要りますね。それ では、いいですか。と、その前になにか音楽でも鳴らしましょうか。運命などはいかがでしょう。それともレクイエムのようなものが。背景には燃えさかる炎」

「なにもいりません」

「それでは。ちょーーーーん!おまけにちょんちょん!」

「うううー。痛ーーーたったったーーっ!アウーーーーーチ!」

「最初は痛いです。けれど、後はすっきりですよ。ついでに玉も二つ落つるかな」

おりしも秋の日は傾き、冷たい風が木々の紅葉をゆらし、遠くの寺の鐘が鳴り、カラスが鳴いた。

「確かにすっきりです。これは凄い。意外です。これは晴天の霹靂です。晴れた日に永遠が、紺碧の空の彼方に、暗黒の宇宙の彼方に永遠が見えます」

「これはどうしましょう」

「鈴木さんそれはあなたにお任せします」

「ではその公園のカラスにあげましょう。えーーい」

「三羽のカラスがそれぞれのものをくわえて西の空へ飛んでいく。森羅万象、万物創世、生々流転。おお、なんとすばらしい」

赤く大きな夕日の前をカラスの群れが横切り、鈴木さんの眼鏡に夕日が当たりキラリと光った。


「冷やソー麺」-----------------------------------------------------------00.06.12

 ここ三日ばかり雨が降ったり止んだりの濡れた日が続いていた。道の両側にはアジサイがあってその奥には高い木が茂っていた。そこを下ると視界が開 け両側に田んぼが広がるまっすぐの道が山の方まで続いていた。山の上の方は霧がかかって白く空は灰色で暗く晴れる気配はなかった。道は山の手前で麓を巻く ように大きく曲がってうねうねと古い農家や木立の間をぬけて行った。次の山の向こうには海が広がる。
 向こうの山の頂きの霞がとれるとそこが大きく割れモスラが顔を出し二回ほど火を吐いた。また雨が強く降ってきた。その山の左の峠を越えると海が見えるはずだ。

「雨が降ってきたわね」
「君はライ麦100%パンだから水には弱いな」
「あなたは冷やソー麺だからいいわね」
「子供の頃は海でよく遊んだな。沖に小さな島があってそこまで泳いでいった。沖に出ると水が冷たかった」
「あなたは昔から冷やソー麺だったのかしら」
「当前です。力うどんやソース焼そばなんかではない。生っ粋の冷やソー麺だ。もうすぐ峠を越える。そうだ。この正面に晴れていれば海が見える」

「この車に傘はないのかしら」
「軍人は傘を使わない」
「そう。ほら、モスラがまた火を吐いたわ。あのモスラ飛ばないのかしら」
「カイロから来たと言っていたね。偶然だね。たまたま友人を空港まで送ったから君と会えたんだ。カイロでは何をやっていたんでしょう」
「考古学を少々。ピラミッドの意味についてなどを」
「そうだ。あそこに寄ってみよう。あそこで傘を借りよう」

「おやまあ、冷や坊でないかい。なつかしいねえ」
「おばさんは相変わらず元気そうで」
「元気でもないよ。婆さんになっちまってさ。もうすぐ棺桶さ」
「おばさん、傘を貸してもらいたいんだ。成るべく大きなのがいい」
「それはまたどうしたことかい。ははあ、お連れがライ麦100%パンだからだね。濡れたらブヨブヨになってしまうからね」

「さあ、海だ。湾の中程に大きな岩があるだろう。あれがさっき話した島だ。よーしまたあの島に挑戦だ。君はどうする」
「そうね。小降りになったし、ここで見てるわ。気をつけてね」
「そーれ。いくぞーっ!わーーーっ!」

「まあ大変、ソー麺がほぐれてばらばらになってしまったわ。どーしましょう。そこの漁師のおじさん。その投網を貸してください。お願いします」
「わしかい。わしは単なる塩ビ管だよ。おまいさんはライ麦100%パンだから無理だ。わしに任せな」
「単なる塩ビ管のおじさん助けてください。お願いします」
「塩ビ管と呼びな」

「単なる塩ビ管のおじさん助かりました。危うく海の藻くずになるところでした」
「いいってことよ。余計なことかも知れないが軍人さん。その体で海へ入るのは無理だ。たまたまわしがいたからいいようなものの、いなかったら一巻の終わりだった」
「僕は軍人です。ドーバー海峡をイルカのように泳いで渡ったこともありますし、嵐のメコン河を渡ったこともあります。要は集中力です」
「まあ、今日はバイオリズムがよくなかったのかもしれんがのう」
「おじさんはこの辺の人ではないですね。僕は子供の頃この海で毎日泳いで育ったんです」
「わしは流れもんだ」
「ほら、モスラが飛んだわ」
「休暇か、軍人さん」
「一週間の休暇です。何ケ所か寄ってここが最後です。明後日にはまた戦場です」
「そうかい。また戦場かい。気ーつけてな」
「冷や坊、行ってしまうのね」
「そう、空港でお別れだね」

「おや、ライ麦100%パンでないかい。まあ、こんなボロ傘よかったのに。冷や坊死んじまったね。私より先に死んでしまうとはねえ、まったく。そんなとこにいないで中へ入んな」
「いいんです。ここで」
「この前来たのは梅雨の頃だったね。もう秋だから速いもんだね。光陰なんとかってやつだ。このところいい天気だから気持ちがいいねえ」
「モスラまだいます?」
「モスラかい。いるよ。今日は出てこないね」

「塩ビ管のおじさん。元気ですか」
「おう、ライ麦100%パンかい。あの軍人さんはどうしたね。そうかい、死んじまったかい。軍人だからしょうがないのう」
「塩ビ管のおじさん。あの島までは遠いのかしら」
「あの大岩かい。そうさね」
「せーーの。いくぞーっ!」
「ライ麦100%パン。何するだーっ!」


「橋の向こう」---------------------------------------------------------00.06.26

君たちは本当によくここまでやってきたね。仲間はだんだん少なくなってもう十人になってしまったけれど、もう君たちは全員が四才になっているのだか ら本当にしっかりしている。さあここまできたのだから安心していいんだ。途中で泣きそうになった子もいたけれどさあここでひと休みにしよう。

さてあの橋を渡ればいいんだ。そうすればあの怖くて恐ろしい魔物たちもやってこない。
だけど残念なことに橋は途中までしかないんだ。
どうしてだかわからない。
本当に残念だ。

ミッシェル、泣いてはいけない。一番大きくてしっかりしている君が泣いてはいけない。
ニコルもどうした。さあ君なら我慢できる。
先生は大人だから泣きはしない。
先生は悲しみは快楽だと思っていた。でもそうではなかった。
悲しみは悲しみなんだ。
ジョニー、ナンシー、さあ、こっちへおいで。

みんな心配はいらない。橋の向こうへ行きさえすればいいんだ。
ここに傘がある。これを持ってこう開く。
そしてこうやって両手で持ってフワリと飛ぶんだ。
いいかい、みんなそれぞれ持って開いてごらん。
ほら、きれいだろう。赤、緑、黄色にそれからピンク。
さあ、あの橋へ行こう。

ああ、やっぱりそうだ。灰色の空間が広がるばかりだ。
本当にそうだったんだ。
サム、ベティ、先生は前にここから戻った人に聞いたことがある。
でも戻ってはいけない。
私もみんなも行かなくては。

ミッシェル、どうした。
そうだ。そうしよう。傘なんかいらない。
そうだ。みんなで手をつないで
ミッシェルはそこ、左、そして先生は一番右、ナンシーはここ。
いいかいみんな、しっかり手を握って。

さあ、一、二、三。


「霧」------------------------------------------------------------------00.08.31

 霧の時間は切り取ることができる。霧のためでなく遠い昔の思い出かも知れない。

 朝早く宿を出た。東海道の最高地点であるここは幾度となく通っているが車を止めたことはなかった。200m位の小さな池で、側には名のある古い墓 や地蔵があり、そのための資料館がある。霧の中を走って砂利の広場に車を止めると辺りは静かになった。回りは霧で白く少し先は何も分からない。無人の資料 館のすぐ下に池はあって霧さえなければすぐ向こうが対岸であり、何も無いつまらない水溜まりにすぎないと思った。立て札に「西回り遊歩道」「俗称六地蔵」 とあった。建物の横をぬけて木々の中に消える湿った土の小道が西回りであり、その反対はコンクリートで固めて少し広くなっている歩道が東回りであり、六地 蔵へ行く道である。
 そこからはすでに下の岸は見えていた。歩道から岸までは笹や潅木があってその先の土の岸辺にはいくつかの岩が落ちていた。波のない水面は白く霧と同化し ていたから、並んだ二つの岩と木の杭は黒く浮かんで見えた。白い霧は静かで、時折上の道を通る車の音が聞こえた。六地蔵へ向かった。

 以前は霧の向こうに何があるかなど考えたこともなかった。霧は霧でありただ聞こえる静かな音と目に見える物だけを考えていた。霧の向こうには何もなかった。

二つの岩が一番はっきり見える所で立ち止まって上を見ると、流れる雲の中にいるようであった。霧が晴れるようすは無かった。霧が顔や腕や足にあたり気持ちよかった。杭は岩の直ぐ後ろにあってその向こうは白い霧であった。

 波も音も無いただの白い小さな池は何のためにあるのだろうか。資料館の外の小さな案内板には池の背後の小山が死出の山でありその横には死出の沢がありそ の上には血の池があると書かれている。霧の中に地獄を見ればいいのだろうか。世の耐え難い物が地獄だとすればそんなものが霧の中にあるわけはなかった。

道を下ると白い池は間近にあった。潅木や笹の直ぐ向こうの平らで水と土の境界のない岸には古い足跡がいくつかあった。そのちょうど後ろが六地蔵へ行く地下道であり奥は暗く何も見えなかった。それは奥行きの無い黒いの壁のようであった。

 視覚の奥にあるこの不安と恐れは一体なんであろうか。日常とはあまりに違う白い世界に対する拒絶反応であるのか、それとも生物としての太古の昔からつながる純粋な不安と恐れであるのか、それとも霧の本質を知ってしまったからなのか。

 霧の中に立っていると時間や過去や未来やいろいろなものが消失してしまったような気になる。だからこのまま霧となって消えてしまうこともできる。

 広場に一台の車が止まり二人連れが降りてきた。上の道を荷物を載せた自転車が通り、白い犬を連れた男がゆっくりと歩いてきた。


「嵐なんて恐くない」-----------------------------------------------------00.10.31

「そこの。おい。もうすぐ嵐が来るぞ。ほら、あの雲がもっと大きくなって。風が湿ってきた」
「爺さん。酒が切れたかい。この青空。この晴天に嵐が来るわけは無いだろ」
「おい。おまえは。どこから来たんだ」
「あっちだ」
「そうか。うまいぞ、飲みな」
「僕は酒を飲まない。でも爺さん、何でそこに座っているんだい。ずーっとそこに座っているのかい」
「だいぶ昔に俺は来て、それからずーっとここに座っているんだ」
「そんな所に座っていると根が生えちまうぜ」
「よく見ろ」
「ほんとうに根が生えているんだね。爺さんは植物かい」
「俺は植物ではないが、根が地中深く入り込んでいて嵐が来ても大丈夫さ」
「地面の中に深く入り込んでいるって、どんな気持ちだい。締め付けられて窮屈でないかい。それに、僕は動けないのは好きでない」
「俺はどうということはない。それに、動く必要はない」

それからしばらくして嵐はやって来た。三日三晩吹き荒れ、大波が押し寄せ、島の木々を根こそぎ倒し吹き飛ばした。
もちろん爺さんも根こそぎ吹き飛んで何処かへ行ってしまった。
僕は平気さ。魚だし、飛魚だから。

二三日するとわずかに残った根から爺さんは生えてきた。
「爺さんは化物かい」
「俺はごく普通の、ただの人間だよ。それよりおまえは何ものだ」
「僕は飛魚だよ。それより、あの飛んで行った爺さんはどうなってしまったんだい」
「俺は知らない」
「僕は学校でプラナリアの実験を見たことがある。渦虫類のプラナリアは切る場所によって再生のしかたが違うんだ。だから頭だけが二つになったりもできるんだ」
「俺はそんなに器用でない」

「あと二三日すると嵐がやってくる。今度の嵐は終わることのない永遠の嵐だ。俺にはわかる」
「爺さん。永遠の嵐などありえない」
「例えば太陽の表面のように熱の嵐が何億年も吹き荒れる」
「あそことは事情が違う」
「いや、必ず来る」
「嵐とは休むことの無い日々だね。僕は平気さ。魚だし、飛魚だから」
「俺は大丈夫。根が生えているから」


「ワーグナーの主題によるピアノのための演歌曲集より」--------------------------00.11.30

「あんたはそこで何してんだい。私はこうして座っているの。ねえ、わかるでしょ。私はね、向こうからこう来てあっちの方へ行こうとしてここに座った の。年だし。疲れたからね。さーて、どうしたもんかね。でも、なんであんたはここに座っているの。私は少し酔っぱらっているから多弁だけど、普段は寡黙な の、寡黙。あんたと同じ。あんたって35位でしょ。名前なんていうの。ねえ」
「鈴木です。鈴木忠雄といいます」
「タダオ、いい名前じゃないの。どうゆう字を書くの」
「忠臣蔵の(忠)に英雄の(雄)です」
「真面目そうないい名前だねえ。私はねえ、美子ってゆうんだよ。いい女だろう。何時の間にか年をとっちまって、もう50だよ。私は明日国へ帰るんだ。田舎 では母さんが一人暮らし、元気だけどもう80だよ。私も一人だから、親子って似るのかねえ。まったくもう何だろうねえ。この指輪はね、一緒に住んでいた男 が置いてったんだ。どうせろくなもんじゃないよ。ほら、見てごらん」
「きれいなサファイアですね。これはいいものですよ」
「あんたに分かるのかね」
「ええ、仕事ですから」
「そう。それはあんたにあげるよ」
「でも困ります。頂いても」
「私はそんなものいらないから。あんたがいらないなら、そこの池に捨てちまうよ。それにあんたが持っている方が役に立つよ。もうすぐ春だって言うのに寒い ねえ。私はねえ、明日の夜行で帰るんだよ。ねえ。あんたねえ、明日そこの駅まで来てくれるかい。ほかに来てくれるような人はいないからね。これも何かの縁 だから」
「ええ、そうですね、わかりました。必ず来ます」

「あんたほんとに来たんだねえ。ほんとに来るもんじゃないよ。何だか泣けるじゃないの。でも嬉しいよ」
「ええ、来ました。これを渡そうと思って」
「まあ、きれいな赤い石。これ、頂いとくよ。何だか嬉しいね。ああ、夜はやっぱり暗いね。この街もこれが最後だね。でもあんたどうして来たんだい」
「あなたに興味があって」
「私は見せ物じゃないよ。まったく。もう会うこともないだろうけどね。元気でね」
「ええ、あなたもお元気で。Auf Wiedersehen!」
「何か言ったかい」
「いや、気にしないでください」

汽車はゆっくりとホームを出て、ボタン雪がちらり、ほらり、と舞っていた。


「イルカの日」----------------------------------------------------------'01.01.31

 そこは一年中風が吹いていた。春も夏も冬も海からの強い風が止むことはなかった。夏は夏で開けておくとギィー、バタン、ギィー、バタン。冬は冬で 閉めておくとギィー、バタン、ギィー、バタン。部屋の奥の椅子に座って低い窓から海を見ると、頭の白い波が次から次へとやって来ては海岸で白く砕ける。そ の飛沫は風に乗ってやってきて何もかも塩だらけにしてしまう。

 ある春の終わり、その日は風と雨が強く、海は荒れ、ドアはバタン、バタンと一日中鳴り続けた。夜も更けて今日も終わろうとしていたが嵐は静まるこ とがなかった。ちょうど日記を書き終える時であった。後ろをふりかえるとイルカが立っていた。イルカの動きは自然であり、目や口の表情は穏やかで、静かな 声でこう言った。
「私はイルカの鈴木といいます。実はお話しがあって参りました」
私は奥の椅子に案内し葉巻きをすすめた。彼は葉巻きに火を着け、ゆったりとくつろいで目を閉じ、そして続けた。
「今から10年程前私がまだ鳥だった頃、この上を飛んであなたを見ました。その時あなたはそのドアの外に立って海を見ていました。空はただ青く、風は強く 吹いて、水平線ははっきりと見えて、他には何もありませんでした。そして海を飛び太洋をさまよい、何年か経って気がつくと私はイルカでした。私は世界中の 海を泳いで回りました。けれども私はなぜイルカなのかと思いました。そしてあの日を思い出したのです。ここの上空を飛んだ時のことを」
 私は彼を見ていた。彼は頭の上の穴から葉巻きの煙りを勢いよく吐いた。目は閉じていたが葉巻きを持つ鰭がふるえていた。
「あの時から何かが変わったのです。このことであなた責めるつもりはありません。わたしはあなたなのです」
 私は黙ってイルカを見ていた。そしてイルカは立ち上がると部屋から出ていった。私はそうかもしれないと思った。

 相変わらずドアはバタン、バタンと鳴り続けていた。


「花よ」---------------------------------------------------------------'01.02.28

 おー、花よ、花よ、私の愛する花よ。なぜあなたは花なのか。その水々しくも、軽く、弱く、色鮮やかな花びらよ。その香しき形の集合は、私の心を愛 の喜びで満たすのだ。おー、花よ、花よ、私の前から永遠に去らないで欲しい。私も永遠にこうしていよう。だからあなたも永遠にそのままで、永遠にそこにい て欲しい。おー、私の神よ。いや、私とあなたの神よ。どうすれば花であるあなたと同じ世界に暮らせるのだろうか。私の命、小さなハート型の命、そんなもの を何百何千と捧げてもかなうものではない。花よ、花であるあなたは何千年も何万年も何千万年も花であったのだ。生きるため、いや、生き残るため、いや、自 らの複製を作るため、いや、なんのために。小さな動く物体である虫達のために。いやそんなもののためではない。多分、花にとって理由など何も無い。私の卑 しい心は知っている。この美しい花達は遺伝子のわずかな揺らぎによって存在していることを。花よ、だからあなたも私と同じ運命なのだ。おー、だから、私の 愛する花よ。私はあなたのために何をすればよいのだろう。美しく官能的にすべてを満たす花よ。花束を、かかえきれない程の花束を抱き締めてみても、そこに 残るのは愛の喜びだけだ。至上の思い出だからと言ってそれがいったい何を残すのだろうか。でも、花よ、花よ、あなたを責めることはできない。
 雪が厚く何層にも凍りつき、それが地面を覆いつくし、春が何年にもわたって来ない時があっても、その雪が溶け去った後には、おー、花よ、花よ、必ず野や 山や浜辺やあらゆるすべての場所にあなたは在ることができるのだ。だから、花よ、花よ、花よ。だからあなたには永遠があり、やはりあなたは永遠なのだ。私 は見ることができる。打ち寄せる波の白い飛沫の下の濃く青い色の中に、上弦の月の暗く宇宙に紛れたあの影の中に、そうだ、太陽の輝く下の白く青くまた白い 雪の冷たくうれしい光の中に、冬の日の夕方、目をつぶって聞く音の中に、そしてすべてのすべてのそのすべての中にあなたは在るのだ。花よ、花よ、花よ、だ からいったい私はどうすればいいのだろう。どうすれば私は花になることができるのだろう。
 できることなら砂漠の赤い花にはなりたくない。春の雪解けのせせらぎの白く光る水色の花になりたいのか。いや違う。あー、花よ、花よ、花よ。なぜ私は花になりたいのだろう。永遠の官能が見えるからだろうか。おー、花よ、花よ、残念なことに私は花ではないのだ。


「意味の不在と無意味の存在について」--------------------------------------'01.06.30

 私は厚さ20cm、内寸1.2m×1.2m×1.2mの鋼鉄製の箱を作ってその中に入り、完璧に蓋をして太平洋の一番深いと言われている所に放り 込んでもらった。ゆっくりと落ちて底に着いた。静かで何か不思議な喜びがあった。三日目になると私はここにいることに飽きてきた。私はすでにスーパーマン のようなものになっていたので目から特殊光線を出して鋼鉄の箱を溶かし外へ出た。一気に海面まで飛び上がると夕日が落ちる時であった。私は何故か涙が止ま らなかった。

 私は厚さ5cm、内寸1.2m×1.2m×1.2mの木製の箱を作って表面に彫り物をし、漆で仕上げ、金箔を張り、その中に入った。完璧に蓋をし て悪霊の住む森に置いてもらった。日が暮れて暫くすると雨が降ってきた。雷が鳴り箱の上に彫られた竜が光った。巨大な悪霊が現われ箱を叩き潰した。
 そして悪霊が言った。「今度はもっとしっかりした物を作ってこい」
 次の日、私は厚さ20cm、内寸1.2m×1.2m×1.2mの鋼鉄製の箱を作ってその中に入り夜を待った。直ぐに巨大な悪霊が現われ、一目箱を見るな り口から特殊光線を出し箱を溶かした。私は直ぐさま巨大化し目から特殊光線を出し防戦した。明け方まで戦いは続いたが決着はつかなかった。やむなく私たち は抱き合い固い握手をして別れた。

 ある朝、私が新聞を開くと一ヶ月の後に宇宙人が地球を攻撃すると書いてあった。私は急いで厚さ1m、内寸12m×12m×12mの超合金製の箱を 作って家財道具を入れ攻撃に備えた。宇宙人のやることは完璧で無駄が無く、地球は焦土と化し人類は滅亡した。そして宇宙人は鼻から特殊光線を出し私の箱を 溶かし始めた。私は目から特殊光線を出して防戦し、反撃し、次々と宇宙人を倒し、ついには宇宙人のすべてを抹殺した。
 すると光り輝く神が現われこう言った。「生めよ。ふやせよ。地に満ちよ」
 何日かすると私は妊娠し暫くすると子が生まれた。何年かすると子は増え、その後また地上には人が満ちた。

 その小さな箱にはオルゴールが入っていた。この茶色の木の箱の裏には昭和二十一年十月四日と書いてあった。私は毎年十月四日になるとそのオルゴールを鳴らした。曲はシューマンのトロイメライである。
 昭和四十一年十月四日、私が二十歳になる日であった。私はこの箱を壇上に置き、出生について語ろうとしていた。
「今から二十年前のことであります。私はとある病院の玄関にこの茶色の木の箱と共に小さな毛布で包まれ置かれていました。小雨の降る初冬の夜のことでし た。だから私は両親を知りません。でも、ここにおられます皆様方のおかげで二十歳の日を迎えることができ本当に感謝しております。・・・・・最後に、皆様 方にぜひこのオルゴールを聴いていただきたいと思います」
 そして箱を開いたその時であった。
 中から巨大な宇宙人が現われ、耳から特殊光線を出し攻撃してきた。私はすぐさま目から特殊光線を出し反撃した。宇宙人は私の反撃により黒焦げになって動きを止め、危機を回避することができた。
 けれども、あの宇宙人が私の母であることなど分かるはずもなかった。
 今日は母の十七回忌である。このよく晴れた秋の日に私はそのオルゴールを激しく鳴らした。ダーン、ダンダンダンダダーン、ダダ、ダダダダダダダダダダダダーン・・・。

 その女は手品師であった。箱に5人の裸の美女を入れ、クレーンで吊るしてあった重さ100tの鉄の塊をその箱の上に落とした。箱は見事に潰れた が、美女も見事に潰れてしまった。手品は失敗であった。女は業務上過失致死罪の容疑で逮捕され取り調べの後、起訴され裁判となった。その女にとって失敗な ど有り得なかったから、これは明らかに何物かの力によるものであった。
 ある夜、その女は頭の上から特殊光線を出し、拘置所の天井を壊して宇宙の彼方の星へ帰った。その星では巨大な悪霊が発生し、平和を乱し、世界が混乱して いた。その女は直ぐさま丈夫な箱を作りその表面に特殊な呪文を書いた。そしてその中に入り巨大な悪霊のいる洞窟の前に置いてもらった。夜になると巨大な悪 霊が現われその箱を叩き潰した。その女は頭と目から特殊光線を出し反撃したが、その巨大な悪霊には見覚えがあった。その女と悪霊は再会を祝し、抱き合い、 固い握手をした。そしてその後、星の平和は戻った。

 私がその魅力的な箱を手に入れたのは砂漠のバザールであった。厚く堅い木で出来ていて、回りには彫刻が施してあり、幾つかの石が埋め込まれていた。中身は空であったが重く、暫く躊躇していたがちょうどバッグに入る大きさであったので、思いきり買ってしまった。
 さて、私は宇宙人であったから目から特殊光線を出して箱を調べて見るとそれは案の定、生物であった。三日程風呂場でふやかすとそれは果たして絶世の美女 になった。箱は女になった。私は箱女に夢中になり気がつくと一ヶ月が経っていた。次に気がつくと二ヶ月が経っていた。そして女は五人の子を生んだ。最初は 箱であったが暫くすると人間の子になった。次々と女は子を生んで二年もすると二十人になった。子供たちは皆良い子で親孝行であり私たちは毎日を笑って暮ら した。


「エンジェル・ビール」-------------------------------------------------'01.07.31

 夏休みの朝、庭の木陰のテーブルでコップに入れた冷たい水を飲んでから、やはりビールにすればよかったと思っていると、太陽の眩しい光線の中から停止したハチドリのように天使が現われ、右手に小ジョッキ、左手に大ジョッキをかざして聞いた。
「あなたの欲しいのはどちらですか」
 私はすかさず「私の欲しいのはその大きい方です」
「あなたは正直者です。両方ともさしあげましょう」と言って太陽の光の中に消えようとした。
 私はすかさず「あなたは実はお暇なようですからその小さい方でも私と一緒に飲みましょう」
「せっかくのお誘い。申し訳ありません。私は勤務中ですので頂くわけにはまいりません」
「そう堅い事を言わず、まだ朝だし、一口だけでもいいではありませんか。この機会に伺いたい事もありますし」
「では、ほんの二三分」
 私たちはテーブルを木陰の奥へ移して飲みはじめた。よく冷えたビールは天使もきらいではなく、直ぐにジョッキは空になり、次のジョッキも空になった。
「それではまず質問の一、この美味しいビールは何処の物なんですか」
「これは私どもの直営工場で作っており、その名も『エンジェル・ビール』と言います。天国の美味しい水と特選のホップと麦芽100%を使い最新の設備で醸造されております」
「なるほど。それでは質問の二、あなたのその透明な羽はたいへんよくできています。蝉かトンボのようでもあります。でもそれは不自然です。羽で飛ぶためには蝉かトンボのようでなくてはならないはずです」
「天使は理屈ではありません。それにこれはどうにでもなるのです。例えば、ほら、こんな風に羽を大きくすることもできますし、こうすれば白鳥の翼です。でも私はこの透明な蝶の羽が気に入っていますから」そう言って天使はまたジョッキを二つ並べた。
「あなたのその青い瞳も何か仕掛けがあるのですか」
「この目は色を変えられます。これは黒です。そして赤。それからこうすれば目が沢山。こうすると、まん中に大きく一つです。ちょっと恐いでしょ」
「おお、なんと素晴らしい。なんとフレキシブルでラグジュアリー。本当にまるであなたは天使のようだ」
「こんなことで驚いてはいけません。この目から光線を出してすべての物を透明なクリスタルに変えることができます」そう言って天使はテーブルや椅子をクリスタルに変えた。
 木の葉を揺らす風が吹き抜け、青い空と強い光は今日の暑さを感じさせた。
「さて、私はもう行かなくてはなりません。その冷たい水をいただけませんか」
「さあっ、どうぞ」
 私はもうかなり酔っぱらっていたようであったから、程なくそのテーブルで眠ってしまった。


「涙は止まらない」----------------------------------------------------'01.10.31

 とある寒村の人里離れた古い民家を借り、そのかつて庭であった一部に大きな穴を掘った。翌日には頼んでおいたトラック一杯のタマネギが届いた。古 びた納屋に運び入れると、早速タマネギを刻んだ。刻み始めて直ぐに涙が零れてきた。なお刻み続けると、涙は止めどなく溢れ流れた。けれども涙が涸れること はなかった。タマネギは無限にあった。刻んだタマネギがバケツ一杯になったので、穴に捨てに行った。またタマネギを刻んだ。涙は止めどなく溢れた。タマネ ギは再びバケツに溢れ、涙は流れ続けた。そして穴に捨てに行った。その日は何も食べずタマネギを刻み続け、涙を流し続け、夜遅くに寝た。翌朝起きると直ぐ にタマネギを刻み始めた。涙は溢れ流れでた。そしてわずかな休息と食事の時間を除いて、タマネギを刻み、涙を流し続けた。
 何日かすると骨を覚え、ゆっくりと流れるようにタマネギを刻んだ。そしてまた涙は止めどなく溢れ流れた。それから何日か過ぎるとタマネギと涙の向こうに 別の時が流れているのを感じることができた。冬が近づいて来た。タマネギを刻み、涙は溢れ、時は流れた。一月程でタマネギは無くなってしまったので、届け てもらった。穴は刻んだタマネギとその皮で半分程埋まった。涙は止めどなく溢れ流れた。
 春が来た。穴はタマネギで埋まりその上に山となった。タマネギを刻み続け、涙は溢れ流れ続けた。それから何年かの間、毎日タマネギを刻み、涙は流れ続けた。けれども涙は涸れることがなかった。


「濡れた羽」----------------------------------------------------------'01.11.30

 馬の影の向こうを回ると今まで見えていなかった物があった。太陽は天空にあって大きな影を作り、指の先には静けさのための氷の球があって、中の空 間に入ることができた。眼球の彼方の岩肌には幾つかの王に対する草の種が落ちていて、誰でもそれを拾うことができた。そしてすでに脳とガラスの親愛なる嵐 は始まっていたから、回転する糸の先の炎に集まる物を見ることができた。無限で無数の鉄くずは太陽に向かって飛び立ち、後を追うように指の骨のつながりが 整然と舞っていた。二つに割れた細長い舌を摘むとゆるやかで静かな赤い湖となった。馬の影は何時までもあって、もう回ることができなかったから、硫酸の霧 になって湖に入って行くと黄色い落ち葉を踏みながら何処までも歩くことができた。三枚の葉と四つの山頂は透明になりながら融けていって、ついには結晶と なった。

 素焼きの皿の上には油と葉の固まりがあって、指先の皮膚のざらつきを感じさせた。
 私は濡れた羽を広げ飛び立つと、馬の影の下側を通過することができた。そして蜂の針が持つ永遠性については数字の侵蝕と六枚の布を充てることができた。

 さて、私のためのチタンのパンケーキは朝日の中で燃えていたから、そのままで街へ出た。通過するための水晶の大気はもはや無かったから、生のため の香りの粉になることができた。ゆっくりと歩いて行くと、しま模様に関する一枚の紙がつま先を静かに叩くので、海の上の擦りおろしたリンゴの石に答えをだ すことができた。そのために揺らめく人の足が湾曲した光線のように走り去るのを見た。五本の小指のためのソナチネがさまよえる運河となって立ち去り、吹き 抜ける荒野の雪が手のひらに止まった。


「チキンのための木苺のソースについて」----------------------------------'02.01.31

 白い富士山の見える道に立ち、冷たい風を顔に受け、全身に受け、着ている服がバタバタと音をたてる。真直ぐ丘を下り、車の通る道へ出て少し歩くと 店があった。ビールを買って飲みながら歩き、バスが来たのでそれに乗った。眠ってから気が付くと町中を走っていた。程なく駅へ着いた。すでに暗くなった道 を歩いて人声のする賑やかな飲屋に入った。すでに出来上がっている四五人のグループがあって、何やら議論をしているようでもあったので、その仲間に入っ た。
「だから」
「私はクラッシュに興味がありまして、そう。ですから、私は高速道路に壁を作ったんです。瞬間的に。たいへん高密度の固くて重い壁です。ええ、もう全然びくともしないんです。180キロ位で走っている車の前に突然壁ができるんです。もう完全にクラッシュです。」
「そうでした。中には人がいるんでしたね。忘れていました」
「まあ。全人類の憎しみを受けた奴が乗っていたと」
「それで次は飛行機」
「馬はどうだ。走っている馬の前に壁を作ることによって馬がクラッシュ」
「猫がクラッシュ」
「猿がクラッシュ」
「カラスがクラッシュ」
「マグロがクラッシュ」
「月がクラッシュ」
「地球がクラッシュ」
「太陽がクラッシュ」

「厳かでかつ悲しみに満ちた食卓のテーブルにはこの日のために大切に育てられた可愛いチキンが心地よいフレーバーと幽玄なる色彩をまとい静かに、さらに静 かに横たわっていた。私は冷たい銀のナイフを持ってその温かくも柔らかい腿肉を切り取り、あの罪深きイブがエデンの園を去る日の朝、密かに摘み取った木苺 で作った赤いソースをゆっくりと掛けた」
「その木苺に疑問あり。罪深きイブが密かに摘み取ることなど、すべてをお見通しの神が許すはずはない」
「いや、そうではありません。この木苺についての行為は日常生活に関わること、密かにとは言え大した問題ではない」
「では、イブに伺いたい。その木苺は一体何のために摘み取ったのか」
「私はそのことについての記憶が定かではありません」
「では、私が代わりに答えよう。それは、あの誘惑者である悪魔との思い出を残すため」
「そうでした。私にとって大切なあの瞬間の思い出を密かに赤い小さな木苺に託したのでした」
 真空で冷たい月の砂漠に立ちイブは地球を見た。
 私はもう看板になる店を出た。一緒にいた仲間達と駅に向かった。月が光る海が見えた。


「静かな春」--------------------------------------------------------'02.02.28

 あの大きな桜の木はもう直ぐ満開の花を付けて散る。まだ小さかった頃、あの木の下に散った花びらを集め、それで遊ぶのが嬉しかった。この前来た時はもう桜は散っていたけれど、そんなことを思い出すこともなかった。
「ええ、私は何も考えることのできない人間なんです。そうなんです」
「やあ、久しぶりですね。なんだか変わらないなあ、みんな」
「私は二年程前にも来たんですよ。暖かい春でした」
「おもしろく咲きたる桜を長く折りて、大きなる瓶にさしたるこそ、をかしけれ」
「枝を折りてはいけませんか」
「人が入る位の大きさだろうか。その位だと気分がいい」
「その瓶に水を一杯に満たし、枝を静かに入れる。月明かりの中、水はゆっくりと溢れ辺りを濡らす」
「菜の花畠に、入り日薄れ、見わたす山の端、霞ふかし」
「事件はそんな日に起きましたね」
「そう、その通り」
「こんな日にバルトークは似合わないな」
「残念なことに桜はまだ咲いてはおりませんが、このよく晴れた青空の下、かくも盛大なる同窓会が行われますことは大変幸せなことだと思います。もうすぐ咲 くであろう桜を思い、この木の下で大いに飲み食べ歌い踊っていただきたいと思います。もうすでに皆様がお聴きのこの曲はわが校が誇る弦楽四重奏団が最も得 意とするものであります。ここであらためて盛大な拍手を。それではゆっくりと名演をお楽しみください」
「私たちは静かで小さな驚きとでも言うのでしょうか。美しさの瞬間の連なりを見ることができたからか。生物の時を感じることができたからか。走り続けなけ ればいけないはずの人間にとって停止した時間とは何でしょう。激しくも停止した静かな時間。このままでいる、或いはいたい、ということが思い出などという あまりに軽い記憶の一つになるはずがありません。そして望んだ通り本当に停止してしまったあの人は冷たい物体となっていくことができたのです。でも私はこ こにいるのです。解き明かして語ろうなどとは有り得ないことですが」
「ドビュッシーだね」
「ラベルだよ」
「春はあけぼの」
「夏は夜。月のころはさらなり」


「風は吹き、雲は流れ」--------------------------------------------------'02.05.31

 急速に流れる雲が青い空に浮かぶ二つの瞳を遮る。けれどもそれらが私に語るべきものは何もない。風は吹き、雲は流れ、私は河口を慌ただしく泳ぐ一 匹のボラになる。あのただ丸いボラの瞳が雲を見る。私は水面を静かに走る船に乗り沖へ出る。まだ寒い海の風を受け、風に吹かれ、波に揺られ、他には何もな い時を過ごす。

「それを取ってくれないか。そう。それだ」
 私はそれを確実に私の脳を貫通するように当て、引き金を引いた。わずかな肉片と血液が散って私の身体は重くなった。私の精神は海面に浮かぶ船のように漂い、風に吹かれた。ボラは水面から離れ天に向かった。

「それを取ってくれないか。違う。それだ」
 私は氷の入った冷たい水を飲んだ。
「君はあの白く光る峰に登ったことがあるか」
「そうか。私もない」

「君はなぜそのようなことを言うのだ。私には理解できない」
「私はあの山頂に吹く冷たい風のことを言っているのではない」
 私は漂う船から深く揺れる海に入った。

 厚い灰色の雲が空を覆い、強い雨が降り、幾つもの閃光が轟く。窓を打つ雨の音で何も聞こえない。
「単に意識の問題だけでなく、資質の問題でもある」
「資質を問われるのは辛い」
「歴史の問題でもある」
「それも辛い」
「もう一度聞く。君はあの白く光る峰に登ったことがあるか」
「実はある」

 雨の中、ボラの瞳が私を見る。けれども直ぐに雨は去り、光が射す。
「虹の断片化が起きている。もう直ぐ夏だ」


「葡萄の木」----------------------------------------------------------'02.08.31

 そのねじまがった古い木を登っていくと。
「そんなことはどうでもいい。私は葡萄の木だから。葡萄の木がなぜそんなことを思うのだろうか。小さな種から私は育って何年も経った。春には芽を出して葉 を茂らせ、秋には実をつけて葉を落とし、冬の間は静かに思考している。それのくり返しであった。何百年もたっているかもしれないし、そうではないかもしれ ない」
 葉の陰には何千もの房があってその上には太陽が輝いていた。
「私は葡萄の木だからどんなことでも考えることができた。たった一つの大きな実をつけることができないだろうか。その秋には容易に実現することができた。それからいろいろなことを試みた。実をならさないこともできたし、一年中実をならすこともできた」
 木は成層圏にまで達していてそこからは横に伸びている。
「私はどこまでも成長することができた。ここは平面が永遠に続く所であったから、私は無限に成長して時間をも覆いつくし、私自身が何であるのかも分からなくなった。空間を完全に満たした葡萄の木はさらに均質に一様になっていった」
 その年は珍しく実が生らなかった。
「私は色付いた葉を冷たい風にはらはらと落とし、思考の時を待っていた。均質で一様な葡萄の木とはどんなものだろうか。ここにその断片があったならばそれは固く透明で重い物であるだろう」
 その木は鉄道のそばに生えていて、ゆっくりと走る車窓から見ることができた。けれども大きな欅の陰で見過ごしてしまうかもしれない。


「星」-------------------------------------------------------------'02.11.01

 高校時代の夏に何人かと上高地へ行ったことがある。河童橋からしばらく歩いた所にテントを張った。その頃はまだ目が良かったから、月がなく人工の 明りが全くない夜は星があまりに多く、不気味さを感じたものであった。その星の下、梓川の水は黒く想像以上に冷たく感じられた。
 夜の天空に開けた宇宙は広大であり、無気味な白い点である星も、まさに星の数ほどあって、わが銀河だけですでに二千億もあると言う。人間の数が六十億で あるから意外と近いものがある。人が死ぬと星になるという話の出典は知らないがなかなかに意味がある。一人に一つの星を対応したとしても十分足りて一人十 個でも大丈夫である。星の所有権はこのように決めたらいいだろう。まずその人が住んでいる所からその人の地球上の位置と取り分を緯度経度で数値的に決め、 ある特定の時間、例えば二千年一月一日の正午、宇宙が停止したとして、その時地球から宇宙に放射状に拡がる空間の中の星はすべてその人のものとし、その中 で一番近いものをその人の星とする。
 では、犬や猫はどうなるのだろう。牛や豚や馬やその他のいろいろな動物、魚や昆虫、細菌に至までのあらゆる生物にも星を対応させたらどうであろう。そう なると星の数は果たして足りるのだろうか。日々多くの生物が死んでいくのだから二千億の二千億倍の二千億倍の二千億倍位で足りるだろうか。まあ、とにかく 宇宙はとても広いのだから心配はいらない。
 その星達は標準が太陽としても実際はかなり大きく、遠く地球から眺めていても直視できないのだから普通の物体ではない。
「つまりどうゆうことなんですか」
「私にも分らなくなってしまいました。なんだか頭がぼーっとして目がかすんできましたよ。あの夕日は二つありますか。そんなはずはないですよね」
「もう横になったらいいですよ」
「要するにすべての生き物を星に対応させてみたけれど、星なんてのはでかいだけで単純なんだ」
「そうです」
「もう直ぐ夜になりますね」


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